昭和43年07月27日 夜の御理解



 親が助かっていなければ、子供の助かりは有り得ません。子供が助かっておらなければ、又は助かって行かなければ親の助かりもない様に。どんなに助かっておる様でありましても、親が苦しみに信心しておる。子供が救われてないとするなら、そこには親の助かりも子供の助かりもない。だからどちらかが本当に助からなければならん。
 今日今朝の御祈念の後でしたが、久留米の佐田さんの奥さんの、若奥さんの方ですが、御祈念中に頂いておられる事なんです。あるお年寄りの方が白衣を着けて、袴を着けてこうちょうどこう、内殿からこう出てみえられた。そしてここまで御結界のこの辺まで下がって来られたが、この白衣の胸がこう乱れており、袴はもう今にも落ちようとしておるような様子を親先生が見られてから、その人を廊下の方へ連れて行かれまして、そしてその、懇々と言うて聞かせておるわけですね。
 「親が助からなければね、子供は助からんぞ」と。今日ある所の御霊様の、娘さんの御霊さんのお祭りがあったんです。ですから例え御霊が助かって行きよっても、現世におる、んなら親が助かってなかったら、丁度御霊の助かりを引きずり落とす様な事になるね。まずどういう中にあっても、あなた自身が助からなければ、きちっと自分の胸を修めなければ、きちっと袴が履かれておらなければね、これではあんたの可愛い娘が、助からない事になるのぞ、と言うてその懇々と御理解を説いておるところを、お知らせ頂かれたと言うのである。
 ほんとに私それから思うんですよね。御霊様がほんとに日々、その自分は亡くなっておるけれども、残っておる両親がまだおられますから、その両親が段々幸せに助かって行かれておる。それを見たり聞いたりして、御霊様も助かられる喜ばれる。私共がだからね、自分の助かりがそのように直接、自分の親やら子供やらの助かりに、繋がることでありますし、また周囲が助かることでもありますですから、ほんとに信心によって、お互いが助からなければならんということを思いますね。
 その助かりと言う事も、どう言う様な助かり方をしておらなければならんじゃろうかね。問題はその人の心が助かっておると言う事でなからなきゃならんね。私は今日ここで奉仕をさして頂きながら、ふっと気が付いたらこの硯箱、硯の中にね硯の水の中に一匹の大きな蚊が落ち込んどった。硯の水のこう粘り粘っこい黒い所に落ち込んどりますから、長い足をこうもがいておる。まあいい気味じゃという感じもせんではない。憎たらしゅう憎々しゅうしとりますからね。
 そしてそんな気持ちからだったでしょうかね、私は筆の先でそれを、また墨の方かれこれやって押し込んだ。水の中へそしたらですね、その押し込んだその反動でどうしても、手を足をもがいておったその蚊がですね、その勢いでポンとこうその飛び上がってね、そのこの墨の中から飛んで出たんですよ。「あら、飛んで出た」と思て、また私のこの目の前のここん所へ止まるんですよね。その時に私はもうそれを、とこう手で叩きも致しませんでしたね。
 これはあの死刑囚の人達でも、例えば一通りの死刑の宣告を受けて、その刑場に引かれてまいりましてね。そして例えば首を絞められるとか何とかしますけども、それでも死なない時にはね。その死刑囚は助けられると言う事です。まあだこのように、その人は生きれる権利を神様が与えておられるんだという、神様の心を尊重するという意味じゃないでしょうかね。私も何かそれに似たですね、いかに憎々しいその、姿の蚊でありましてもね。一度はこうやって墨の中に押し込んだ。
 押し込みましたけれどもその反動で、勢いでですここから飛び出して行って逃げた蚊を、追うという気も殺そうという気も致しませんでした。教祖様が近藤藤守と言う先生に、お伝えになっておられる事の中に、近藤藤守先生が月々大阪から、交代にお参りをされるその道すがら、かすみ網を持ってたくさんのすずめを一網打尽に、こう捕るんですね、かすみ網と言うのは。それを捕っておる人に出会われた。もう何にも知らないすずめが、もう一網打尽に捕られてしまうわけなんです。
 それを見ていたくその、悲しい事に思われた。まあかわいそうな事だと思われた。その事を教祖様に、御本部へ着かれてから、お届けをされますと教祖様がね、「そのかわいいと思う心が神心じゃ」とこう仰った。私共はですねあの例えば、すずめ一匹の上にでも、蚊一匹の上にでも、それはね蚊が憎々しいし人間の生き血を吸うのでございますから、叩きもし殺しもいたしましょうけれどもですね。
 それでもその向こうにもう一つその向こうにです、憎々しい蚊でもね、もう殺す気がしなかったと言うそういうね、私は心を持たせて頂いておると言う事は、すでに私は私自身が助かっておると言う事じゃなかろうか、とこう思うのです。私は助かっておるとはそう言う事だと思うんですね。健康であると言う事も助かっておること違いはありません。お金に不自由しませんね。物に不自由いたしませんと、言う様なおかげを受けると言う事も、助かっておる、これは形の上の印でございましょうけれども。
 その心がです。例えば憎い蚊一匹の上にも、思いをかけてやれれると言う、そういう心を使わせて頂くと言う事がです、その人が助かっておる。そこに私だけではない、自他共に助かって行けれる道があると思うんですね。私は助かると言う事は、そう言う事だと思うんですね。そのおばあさんが助かられなければね、今日のかわいいまだ娘さんの時代に亡くなられました。二十歳くらいだったでしょうかね。その娘さんのいわば15年の、今日は式年祭があったんですけれども。
 その娘さんのほんとの助かると言う事がです、お母さんがほんとに助かっていなかったら、いわばほんとの意味においての助かりが出来ない。助かって行きよっても、それで引きずり落とされる様な事になると言うのですから、どうでもおかげを頂いて、私自身がね、本気で助かる道を本気で体得さしてもらわなければならない、というふうに思うですね。それは憎々しい蚊一匹の上にでもね、思いやりと言うかね神心と言うか、そういう心が使えれるような心。そこに私の助かりがあるというふうに思いますですね。
   どうぞ。